三匹の獅子

英語「Three lions」イングランド代表のエンブレムに刻まれた三匹の獅子に対して、イングランド代表を表すときに使われる。

栄光の後の忘れ去られた時間

ドイツ戦で、ハットトリックを達成*1したイングランド代表のストライカーの歴史を遡れば、イングランド代表が地元開催で劇的な優勝を飾って幕を閉じた、WCイングランド大会決勝、西ドイツ戦まで遡ることになる。

この試合で、Kenneth Wolstenholme のあまりにも有名なセリフ、『They think it's all over』の絶叫が生まれ、イングランド代表の黄金期が始まると誰もが確信した。しかし、70年代のイングランド代表は、メキシコ大会では、準々決勝まで勝ち残るが、皮肉にも後に彼等の栄光への道を度々閉ざす、宿敵ドイツ相手に苦杯を演じて、敗退。また、ヨハンクライフを中心に“トータルフットボール”と言う哲学を提唱する“オレンジ軍団”の、“フットボール革命”でわいた、74年の西ドイツWCには、“道化師”と言われた、GK、Jan Tomazewskiを擁して、鉄壁なDFを誇った、東欧の伏兵ポーランドに出場権を奪われる形で、苦杯を演じることになる。その後、66年の優勝監督で、サーの称号を後に受けた、Alf Ramseyの選手起用への世間の不満が囁かれる中、11年にも渡る彼の長期政権の終焉をみるのも、そんなに遅くはなかった。78年の当時の軍事政権化で行なわれた、アルゼンチン大会は、大会前から“プロパガンダ”としての意味合いが強いと、国際社会からの批判を浴びながら、劇的に勝ち抜いた(八百長疑惑も含み)、地元のアルゼンチンが、家族との時間を大事にしたいと言う(これも、適当な口実だったと噂されているが)、気まぐれな天才のいないオレンジ軍団を破り、見事に優勝を飾るが、其の一方、イングランド代表は、偉大なAlf Ramseyの引退後の監督人事の混乱がグランドに飛び火した形で、予選の初戦でイタリア相手に躓き、出場を逃す。こうして、70年代のイングランド代表は、“眠れぬ獅子”のごとく、60年代の遺産を抱えたまま、長い冬眠の時期に入ってしまっていたのであった。

微かな希望が見えた80年代〜90年代

82年のスペイン大会は、“出場枠の増加の恩恵”(16から24)を受け、久し振りの大会復帰となったが、予選グループ4での1位通過を喜ぶ暇もなく、予選第二ラウンドで、得点不足が露呈され、天敵のドイツにその道を明渡してしまうことになる。下らない紛争*2の余波の中で行なわれた、ペテン師の為のWC*3として後に語り継がれる、86年のWCメキシコ大会。ここでは、ミスター清潔、ギャリーリネカーが辛うじて大会の得点王になっただけで、ペテン師(ディエゴ・マラドーナ)の良いかませ犬としての役目の演じる、決して良い思い出でもなんでもなかった、イングランド代表。予選グループ4は、メディアから“最も退屈なグループ”だと言われる程、得点のない、ゼロのオンパレード。ベスト16への突破も怪しくなって来たイングランド代表は、グループ最終戦ポーランド戦で大きな選手の入れ替えを行ない、当時の監督だったボビー・ロブソンは、ここまで批判的だった、評論家の意見に迎合する。Beardsleyをミスター清潔の相棒に抜擢し、これが上手く機能。結果的に、リネカーの得点王に結びつくことになるが。90年のWC予選を無敗で堂々と出場を獲得した、イングランド代表。途中から参加したポールガスコインの創造性に微かな、古豪復活の臭いを感じながら、後、もう少しのところで、またも天敵のドイツにPKで苦杯を演じる。ポールガスコインの涙は、英国国民の魂に触れ、彼は一躍国民の英雄になったのだが。この成功で活気を取り戻したイングランド代表だが、ユーロ選手権では、予選グループ1の最下位。僅か1得点と言う、散々たる結果で、またもや沈滞ムード。後に、“Orange wall”(オレンジの壁)として有名になる、94年のWC予選では、伏兵の北欧のノルウェーに苦杯を喫し、残りの出場枠をかけて、和蘭と戦うが、見事に撃破。また、沈滞の時代が続く。国民は誰も、代表の話をしなくなる。この沈滞ムードは、フットボールが“聖地”に帰って来るまで、姑くは続くしかなかったのであるが。

メディアによって生まれ変わった代表

Ozのメディア王が打上げた巨大な衛星が、イングランド代表の運命を変える物になるとは、当時誰が考えたであろうか?この衛星テレビ局がもたらした、莫大なTV放送権料は、80年代から頻繁に起こるようになっていた、“老朽化したグランド”での事故などを解決するべく、整備する資金に使われ、度々、海外の裕福なクラブチームに移籍する有名選手の国内流失を防ぐ防波堤を作る、資金も、クラブチーム流れるようになった。この“商業的フットボール改革”は、Euro96での成功で、悪名高き“テラス席”でのフーリガンなどの80年代の汚点を、世界に向けて払拭する絶好の機会を得た。その後、クラブチームには、“海外からお金を求めた”有名選手が集まるようになる。リーグでの“国際化”は、代表チームにとって、母国選手のポジションが奪われる弊害を危惧する、マイナス的な考え方も起こるが、“競争力の向上”により、代表選手の強化に繋がると、プラスの面を強調する人々が増えつつあるのも確かなこと。この当時から、後に、今までのイングランドでは考えつかない、“外国人代表監督”を容認する流れを作っていたのかもしれない。

オリンピックスタジアムでの、ホイッスルが鳴り終わった後、国民は、イングランド復活を感じていたに違いない。彼等は心の中で、『They think it's all over』と、口ずさんでいたかもしれない。しかし、この前と違うことは、彼等は過去の失敗から学び、他国から学習することを学んだ。フットボールの母国が、古臭いプライドを捨てた瞬間に与えられた、“一種の御褒美”だったのかもしれない。また、それは、クライフの幻想とロマンチックに浸る、オレンジ軍団の非現実主義の崩壊と対立する、超現実主義な、ビジネスライフな今の英国を象徴するものかもしれない。

ベッカム時代と、その後

 その後、ベッカムの放った、彼の代表での唯一の華々しい功績と言える、予選最終選での、FKは、ギリシャ代表のゴールマウスを揺らし。彼は、一躍イングランド国民の英雄になった。しかし、極東で,行なわれたWCでは、その強固のDF*4で、スウェーデン人監督の限界が見え始めた時、イングランド国民は、次第に、エリクソンベッカムの超優雅主義の代表に懐疑論を展開し、好色なスウェーデン人監督のスキャンダルがタブロイド紙を賑わす日々が続き、フットボール以外での問題が浮かび上がる。

 その後も、2002年WCを境に、英国のクラブチームの欧州での躍進とは、相反して、代表は、また、平凡な結果に終わってしまう日々が続き、この時期、彼等が生み出した物と言えば、ベッカムの妻(ビクトリア・ベッカム)並みの、派手な、フットボールの妻のライフスタイル、(俗に言う、WAGS)の存在だけで、グランドの外以上に、彼らは何も残していない。

*1:2002年WC欧州予選、マイケル・オーウェンが叩き出した。ある意味、この頃までが、スウェーデン人監督、エリクソンの黄金の日々だったに違いない。

*2:フォークランド紛争

*3:神の手、DFを巧みに交わすドリブル。

*4:パスタリーグ並の、DF重視で、負けないフットボール。それは、アルゼンチン戦や、ブラジル戦でも見られ。予選を勝ち抜くには、十分だが、それ以上は期待できないと、影で囁かれた。